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MINAMATA

何度も何度も日程を調整し
予定を入れていたのにも関わらず
こんなに振られるものかと
驚きすらもあった

MINAMATA

まずはシネマパレット、そして東京のシネマチュプキ
さらには京都のアップリンク。
極め付けは、先週のシアタードーナッツ

昨日も予定に入れていたものの
体力というか気力というか
40分の道のりが飛行機に乗るような
感覚に見舞われ、外に出ることができなかった。

そんな日もあるのだが…ようやく今日、
満を辞して観にくることが出来た。

昨日、ちょうどこの時間に
社長と話していたことが
頭の中で何度も繰り返されるような
隣で肩を触れているような
感覚にもしてくれて
今日、観るためのこれまでのタイミングだったのだと思っている。

外に出て少し気持ちを落ち着けようと
立ち寄った喫茶店の外ではデモが通過した。

少しだけ心の中が揺れる

行列、群衆、集団。

水俣での市民の嘆きを観た後だから他ならない。

映画を観るということはきっとこれまで
何も気に留めもしなかったことに
少しだけの想像とフィルターを与えてくれている。

なんであのデモに参加したのか
どこからスタートしてどこに行くのか
交渉したいことは何なのか
それとも社会に訴えていくことが目的なのか
メンバーが集まるまでにどれだけの話し合いと計画と準備があったのか。
途中で意見が割れたり、利害関係の問題で参加を諦めた人もいたのか。

そんなことを知っても何も変わらないことを知ってはいるのに
そこに人間がいて、感情や行動があって理想がある。
デモは一つの手段であるから
そのもっと先にある目的を知りたくなる。

今回のMINAMATA
ドラマティックに描かれすぎている
との批判も受けていたようだが
私にとってはそんなことはどうでもよく
自分に一つの新しい物語を加えるために
115分の映像が事実だったと信じることにする。

東京のFUJIフィルムの展覧会でみた
ユージン・スミスの写真と言葉が蘇る

私の写真を見て考えてください。感じてください。

ユージンは沖縄戦も撮影した
ジャーナリスト史に残るカメラマンだ。

名声やお金よりも健康や家族よりも
事実を撮るということに生涯を捧げた。

戦場での撮影によるトラウマや身体的な障害
さらにはアルコールへの依存に苦しみながらも
自分の意に反する仕事は受け入れることなかったという。

そこにあるのはきっと
目の前の出来事に心を動かされるからだろう。
映画の中でのユージンは何度も何度も
写真は撮る者の魂も奪っていく
だから本気で撮るんだ」と言っていた。

その言葉が現れているシーンがいくつもあった。
数えきれないほどの衝撃的な写真を撮ってきたユージンが
撮ることを躊躇する様子にこちらも心が持っていかれる。

目の前の事実は自分が出会っているものであり
その時間を記すことで大きく揺さぶられる感情が生まれ
その後に撮ったことの責任を感じるからではないだろうか。

だからユージンは記録用の写真ではなく
人間を遺そうをしているように見えた。
それがただ、写真という手法なだけで。

私がもしこの映画を撮るのなら
何を記したくてどこを軸にしたくなるのだろうと考えてみた。

アイリーン(ユージンのパートナー、日本人女性)の視点から
ユージンの姿の変化を描くとどうなるのか。
冷徹に見えるチッソの社長(國村隼が演じている)の
葛藤や苦しみを探ってみたらどのような作品になるのか?

世界の注目という視点
環境汚染という視点
政治・経済という視点
自治体という視点
被害に遭って亡くなった人の視点…

そうしているうちにまだ言葉を続けたくなって
遠くから漂ってくるえびピラフの匂いも無視できず
喫茶店滞在の延長を決め込むことになった。

映画を観ることは知らなかったことを知るきっかけになると同時に
生きていく上で足を止めて考えたくなるものが増えることでもある。

映画鑑賞が一時的なリラックスや
現実逃避になるならどれだけ気が楽だろう。
MINAMATAで起きたこと
いつでもどこでも起きうること。
さて自分はどう生きようか。
何をするかではなく何を大事にしたいのか。

2021.2.15 がじゅまる学習塾

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